*(自分語り)アーケードゲーム
実は、”アカとブルー”というゲームについて語りたくて仕方がないのですが、その前提としてまずは、自分とアーケードゲームについて語っておかなければなるまい。恐らくこの前提がなければ伝わらないモノがある・・・いやただ単にどこかで自分を語っておきたいだけですハイ。

アーケードゲームとは、いわゆるゲームセンターや観光地や温泉のゲームコーナーなどで稼動する、100円玉などを入れてプレイするコンピューターゲームのこと、くらいに押さえておけば良いとは思います。モグラたたきなどのエレメカと言われるものもありますが、1980年代は家庭用ゲーム機を寄せ付けないほどの最新技術と表現力で作り上げられたゲームがそこにはあったのです。ある時期まではアーケードゲームの水準を必死に追いかけていた家庭用ゲーム機が追いついてしまった今ではすっかり見る影もありませんが・・・。

ええと、基本的に私はSFファンです。これ重要です。お忘れ無く。物心つくかつかないかの頃からテレビでマジンガーZなどのロボットアニメやゴレンジャー、ジャッカー電撃隊などの特撮ヒーローに親しみ、5歳くらいの頃に親に連れられてスターウォーズエピソード4や宇宙戦艦ヤマトを劇場で観ていたのである意味英才教育、こうなるのは必然だったと言えましょう。その下地の上に小学2年の頃にファーストガンダム・・・は幼すぎてよく分からなかったのですが再放送と1981年の劇場版、ガンプラブームで小学3年の頃にはガンキャノンとグフを愛し、将来はランバラルになりたい(後年体型”だけ”は近くなった)と願う子どもになっておりました・・・何せ当時小学校の昼休みには校内放送でガンダムのサントラがかかる中ドッヂボールに参加していたのですからさらに強化されるわけです。運動は苦手でしたので受けることも投げることもせず、ひたすら回避や目立たないように立ち回ることに集中する・・・こんな真っ向勝負を避けてスキマを突いて自分だけ少しでも生き延びることしか考えない、いびつな人間に育ってしまったのも宜なるかな。そういや中体連の水泳でも、100m自由形なんかの花形種目は徹底して避け、比較的不人気種目であった400m個人メドレーで全道4位とか達成しましたな。いえその種目の全道大会出場者は4名でしたが。(笑)
それを言うと現在も花形?である1/3クラスの人形を撮らず、あえて現像などせず、個展ではなく移動式人形写真展なんて斜め方向の遊び方をしているのもまさにそうか・・・三つ子の魂百までとはいうものの、10歳までの経験で人生決まってしまうものかも知れないな・・・。

いや話をアーケードゲームに戻そう。SFや自分哲学(笑)だけでも膨大な量になりそうだ。
まず具体的なゲーム名を挙げていくと、信仰の対象は”メタルブラック”。これは音楽、演出、テーマ全てをひっくるめた、自分のゲームプレイで進める総合芸術SF作品です。何人であろうとも異論は認めない。

1クレジットで一周、あるいは1ルートでもクリアしたことのあるゲームは”ダライアス””ダライアスU””ダライアス外伝””ダライアスバーストAC””ナイトストライカー””サンダークロス””サンダークロスU””アウトゾーン””雷牙””スプラッターハウス”くらい・・・知っている方は既にお気づきとは思いますが、偉そうなことを語ろうとしている割にその実態はただのジャンルの偏った「イージー☆ゲーマー」なのでございます。(笑)
他に好きな(1クレジットクリアに至っていない)ゲームで言えば”グラディウス””沙羅曼蛇””チェルノブ””トリオザパンチ””ファイネストアワー””ガンフロンティア””レイフォース”等々ネタと雰囲気が重要・・・以上、伝わる人には何か伝わったのかもしれない話です。そんなわけで、見るからに難しそうな弾幕シューティングなどには絶対手を出さなかったような人間でもあります。そんな10代中盤から20代初頭までを生きたのが私でした。

最初は小学生の頃、当時3歳上でゲームもプラモも含め趣味全般の憧れだった、心の師匠とも言うべき従兄弟の部屋で見た”スーパーソフトマガジン”のゼビウス特集。その設定とロマンは魂に深く深く刻まれたのでありました・・・さらにはファミコン発売前に、MSXという”パソコン”で動くパックマンやマッピーといった移植ゲーム群・・・その後、ファミコンでゼビウスは出ましたが当時とても行けないゲームセンターにあるという”本物”への憧れもまた、深く魂に刻まれたのでありました・・・。

小学生の頃、唯一実際にアーケードゲームに触れることのできた機会は、2020年現在の居住地の近く、亡き母の出身地、いわゆる田舎に夏休みに連れて行ってもらった際に、近くにあったドライブインに連れて行ってもらうことでした・・・今はもう跡形も無く、どこにあったかも判然とはしませんが・・・。前述の従兄弟はそこでギャプラスをエンドレスでプレイしていましたので、当時的にかなりの上級ゲーマーだったのでしょう。しばらく会っていませんが、いつか話を聞きたいものです・・・。今考えればハンバーガーやそばうどん、カップヌードル(当時はプラフォークで食べるCMで、すっかり海外製だと思っていました。それを言うとアウトランのセンスや高い技術力など、セガはかなり後まで海外メーカーだと信じて疑わなかったものです)などの自販機も備えたパラダイスでした・・・。そこで小遣いをもらってゲームをするわけですが、覚えているのが”ペンゴ”(何より音楽が素晴らしいのですが版権の関係か近年の復刻版では差し替わっておりコレジャナイ感が半端なくてできない状態です)、そして”ヴァンガード”(ゲームオーバーから30秒以内にコインを入れれば続きから、という個人的に初めてコンティニューシステムに遭遇したゲームでした。ヘタでもコインがムダにならない気がして少ない小遣いを有効活用できた気がしました。あとは脅威の4ボタンで4方向ショットというシステムのインパクトも満足度を高めていました)くらい。あとは後ろから救急車に追突される見下ろし視点のレースゲームでしょうか。あと、その田舎の温泉施設にはテーブル筐体がズラリと並んでおり、そこでは小遣いがもらえなかったので見るだけでしたが”ジェネシス””イモタリアン”などのインストカードの言葉が記憶に残っています。
あとは北海道が大赤字を出した”世界 食の祭典”のゲームコーナーで見た”Bウイング”(16方向に攻撃なんて無敵じゃないか!と思ったものです)そして初めて見た本物の”ゼビウス”が印象的でした。ゲームのための小遣いはもらえなかったので見るだけでしたが、十分にロマンは吸収しました。一方、その食の祭典で何を食べたかの記憶は一切残っていません。(笑)

そして1987年、中学2年。同じクラスになった友人(当時のスコアネームCR2。ちなみに自分はテーブルトークRPGのD&Dでもらった称号、ホワイトドラゴンスレイヤーから今でもWDS)が毎日のように”沙羅曼蛇”のロマンを語るのであります。そりゃーすげーいつか本物を!という思いはさらに。そしてその友人と初めて入った近所のゲームセンター(その頃まで模範的学生でしたのでゲームセンターにはとても独りでは行けなかったという)で出遭ったのが”ダライアス”。アーケードゲームは家庭用ゲームと違い硬質で非情なまでに難しいという認識しかなかったわけですが、偶然立ち読みしていたアーケードゲーム専門雑誌”ゲーメスト”でそのタイトルと1面ボスの楽勝法を知っていたので、「これなら自分でも1面クリアできる!かも」というのが始まりでした。当時的に2面まで行けば払った分の元は取れそうだ、という認識があったわけです。無論資金に乏しく買い食いなんてもってのほかの学生だったので、一回50円というのも大きく、さらにはファミコンでは絶対出ない3画面ゲームだったというのもコインを投じる価値を十分に感じさせるものでした。その店には残念ながら”沙羅曼蛇”はなく、”グラディウス”はテーブル筐体に入っており既に少々古いゲームという認識で、既にファミコン版が出ていたのでパス。”R−TYPE”もそこではテーブル筐体で、見ているとやたらと難しそうだったのでパス・・・恐らくゲーム人生の分岐点、横シューティング御三家では三番手?の”ダライアス”に長らく今でも入れ込むことになるきっかけはそこにあったのだと確信します。それから筐体にヘッドホン端子があり、自宅にあったカセットレコーダーで音だけでも”お持ち帰り”できたのもお得感が高かったと思います。ファミコンでは出せない硬質な音色の楽曲は深く心に刻まれ、LPレコードを買い、ゲーム音楽を主として聴くようになった基礎ができあがったわけです。それには”BEEP”という雑誌に付属の”ソノシート”の影響も大きかったわけですが・・・話を”ダライアス”に戻すと、1面ボスにたどり着けば楽勝法で確実に倒すことはできたのですが、最初は二人でも2面ボスに勝てず。しかし回数を重ねるごとに少しずつ進むようになり、その友人と申し合わせて学習塾をそのゲームセンターの二階にあった塾(なんてところに!)に移し、少しでも楽なルートを模索し、強敵である4面ピラニアボスを越え、最終面までたどり着くようになったわけです。無論毎日のように音楽は聴いていたわけですが、筐体からラスボスの曲が流れた感動と、何とかどうにかラスボスのイカを沈めた感動の印象は今でも強く残っています。それが人生で初めて1クレジットクリアできたアーケードゲームとなったわけです・・・それまで自分にはムリと思っていたことができるようになった、それが自分の人生における達成感のピークの一つだったかも知れません。その後はその達成感を求めて比較的簡単なアーケードゲームを探すため毎号”ゲーメスト”を買っては情報収集をし、ゲームセンターをハシゴしてリサーチし、同じゲームでも100円イージーランクの台でやるか50円ノーマルランクの台でやるかをホンキで思い悩む、イージー☆ゲーマーと一路なっていく人生でした。(笑)

”ダライアス”はその後他ルートはとてもクリアできそうにないと判断、土曜日ごとに自転車で遠出をして数百円しかない資金をどう有効に地元にはないゲームに費やすかを考えていた日々でもありました・・・。
毎日のように学校帰り暗くなるまでゲームのロマンを語り合い親に心配され(彼は当時的にリアルタイムのオープンワールド構想を持っていました。数十年後に実現するとは)ダライアスで共に戦った彼は今どこでどうしているのか。当時からイラストを描く努力をしていて、親の転勤で大阪に移った後、イラストレーターになると言って東京に行ったところまでは分かっているのですが・・・最初は自分も描こうとしていたのですが、すぐに諦めた自分は今、人形と写真で画と拙く小さくはあってもお話を作っているということをいつか、いつか伝えたい。ああ、CR2は今どこに・・・。

その後、その友人とは高校が別になり(テーブルトークRPGで集まっていた仲間は全員他の高校に)、それ以降は孤独にアーケードゲームを求める人生となりました・・・

あー、導入部分だけでこれだけの分量に。ということで、これ以降は別の機会に。とにかくアーケードゲームにそれなり以上の憧れを抱いていた少年であった、そしてアーケードゲームにロマンの軸足を置いていた人物であったと思って頂きたい。

あ、ちなみに対戦格闘ゲームの話は一切出てきませんでしたが、私がアーケードゲームを愛した理由は”毎週、毎月のように最新最高のグラフィックやPSGからFM音源と進化していくコンピュータサウンド、波形からサンプリング音源になっていく効果音、最新最高のコンピュータシステムで、新たなSFヴィジョンやSFロマン(繰り返しますがこの二つが最重要)やストーリーが表現されるから”でした。だから、そういったゲームを駆逐していった(ように見える)対戦格闘ゲームは私にとって憎悪の対象です。まさに、憎むべき敵!あとは週に数百円程度しか使えなかった学生時代に、周りで湯水のようにコインが投じられるのを見て無理、と思ったのも運命の分かれ目でした。そして、対戦では物語がどこへも向かわない(後年になってドラマはゲームの中でなく、プレイヤー間に起こっていたらしいことを知るのですが・・・)、物語とは何の整合性もないというのも耐えがたいことでした・・・。その後ゲームセンターはぬいぐるみキャッチャーだらけになり、長い長い失意の年月を過ごすことになるのです。就職で北海道の中でも地方住まいになったこと、プレステやサターンなどでアーマードコアやパンツァードラグーンなどSFロマン溢れるゲームが続発したのもあります。
あ、ミカド配信等で学ばせてもらった範囲で、ゲームセンター業界的に何故こうなったのかというのはある程度以上理解しておりますよ。ハイ。無論あまりカネを使わず楽しもうとした自分のような人間がアーケードのビデオゲームを滅びに向かわせた張本人であることも十分自覚しておりますです・・・。

ということで、実はこれは前段に過ぎなかった!
次が伝えたい、語りたい本編。次回も人形ネタ写真はない。

つづく

次回予告

それは、2017年から始まった。
”思いのまま飛べる”プラットフォームによる制限から生まれた溢れ出るSFメカロマン。
素晴らしい設定とシナリオ、声優達の熱演。
難度設定を設けなかったことが自信の表れにすら思える、挑戦を繰り返し回数をこなせば見えてくる、絶妙なゲームバランス。
そして、その先に蘇る、時代と共に失われつつある、かつて愛したアーケードゲームのロマン。

何故こうまで、これほどまでに応援したいのか。
2020年に特別企画として記す。

次回、アカとブルー

この際、誰も付いてこなくとも、構わない。


外伝トップに戻ります